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久々更新。

ネネとかカタが煩いんで更新。

分冊文庫版魍魎の匣をようやくげっと。
3週間かけて読破して、すでに3回読んだ。
凄い話だった。これだから京極は期待して間違いが無いんだな。
今は狂骨の夢の中巻。
導入部だけで1冊340頁を使う凄まじいヴォリューム。
分冊文庫版で活字の組み方が変わってるはずだからなんとも言えないけど、単純計算で通常文庫版では1000頁を超える。
さすがに1000頁の本は持ち歩くのは辛いな。
通常文庫が1500円くらいに対して分冊文庫が3冊で2100円くらいなんで割高だけどまぁそれくらいは仕方ないやね。

んで知人から電撃文庫の「神栖麗奈は此処にいる」と言う本を薦められて借りて読んでみた。
これはひどい。と言うのが率直な感想。
まぁ電撃文庫みたいな娯楽小説では仕方の無いことかもしれないけれど、まず内容が薄い。
謎が多く、謎を謎のままにすると言う手法ももちろんあるが、この小説では謎についての説明が多くされている。
しかしその説明にも論理的裏打ちが無く、説得力と言うものが無い。説明量にも関わらず説明不足が目立つ。
登場人物は総じて短絡的で深慮することをしない。
まぁ、こうゆうのもアリかなって感じだな。
多分この作家の本はもう読まないと思う。

CABALの話?知らん知らん。

22:41  Posted by 空白
読み物。 : comments(1) : -

原作と改作。

こんばんは。辛いカレーが食べられるようになった空白です。



改作とはすでにできている作品に手を加え、作り直すこと、また、その作品のことである。(「大辞林 第二版」より)

映像や音声メディアで作成される作品の半数以上は原作が存在すると言って良い。
これは単に、ペーパーメディアで人気を獲得した作品が他のメディアへ変換されて公開された事実を逆説的に言っているだけだ。

俺は、個人の趣向上、後の「原作小説」と言う物を読むことが多い。
小説を選ぶ際の基準は、作家、タイトル、テーマ、表紙折り返しの粗筋、表紙デザイン、イラストなど、様々であり、別段人気のあるシリーズを狙っているわけでは無い。と思う。
しかし現実問題として、気になって読み始めたシリーズが後に大人気を博す事が多い。
シリーズの第一巻、さらにその発売から程なく買っているにも関わらず、だ。
この理由は単純にして明快。
既にしてその小説の持つ地力と言うものは、出版業界によって評価されているからだ。
その地力が高ければ多数の本屋にその作品が置かれることになる。
大人気確実の作品であればどの本屋に行こうが目にする道理だ。
それは兎も角として。


小説や漫画からの映画化、ドラマ化、アニメーション化、ラジオドラマ化などは、現代では既に常識と言って良い。

改作は原作とは違う。
同じテーマを語り、同じストーリーを辿っていたとしても、決定的に同じ物ではあり得ない。

その差異の大小は様々だ。
原作に忠実であり、それに成功している例もある。
原作を元に新たに再構築したような改作もある。
更に、原作に忠実であるにも関わらず、それに失敗している例もある。
原作を元に新たに再構築して、それが原作と寸分違わぬ物であれば、それは原作に忠実であり、それに成功している例と区別が付かない。
原作を元にせずに再構築された物ならば、それは同じタイトルでも無い限り、その作品が或る原作の改作であることには気付かないだろう。


俺は、結果として原作に触れることが多いが、原作至上主義と言う訳でもない。
原作との差異が唯の違和感としか感じられず、原作の再現度のみを改作の評価基準にしている人もいるが、まぁそれは個々の趣向に拠るので勝手にすればいい。
俺は、改作も一つの作品であることに変わりは無いと考え、それはそれとして楽しめるのだ。

逆に改作を先に目にして、後に原作に触れるケースもあるだろう。
この場合の楽しみの一つが、改作によって語られなかった場面、ストーリー、登場人物の描写がある。
これは良い。
無理に取って付けた追加エピソードではない。
楽しめた作品とは、内容が濃い限りいつまでも見ていたい物であり、改作に拠るカット部分と言うものは、その欲求を限定的にではあるが満たしてくれるものだからだ。



広く以って作品と言う物の楽しみ方は人それぞれである。
無理に設定することは無いが、自分の楽しみ方と言う物を探してみると、作品を一層楽しむことが出来るだろう。






ではー。

22:01  Posted by 空白
読み物。 : comments(0) : -

想像力。

こんにちは。姑獲鳥の夏上下二冊読むのに三日かからなかった空白です。




俺は割と活字をよく読む。
これは最近気付いたことだが、どうも活字を読む際にはそれは紙媒体で読まなければ上手くないようだ。
特に小説のような読み物は、読み手に対して多分に想像力を要求する。
ニューズを並べる新聞などとは違い、小説には場面がある。
登場人物には感情があり、思考があり、意思があり、場合によっては信仰がある。

『行間を読む』とは良く言われるが、これはそう難しいことではない。
『行間を読む』と言うと何だか、文意に秘められた、或いは秘匿された筆者の本意を読み取る、と言った様な、酷く曖昧で高尚な行為の様な気がする。
しかし、筆者の本意など筆者本人にしか解らないことであり、小説を読む際に、筆者が本心から言わんとする事を読み取る必要など何処にも無い。

人間の摂取する情報の大半は視覚に拠ると言われている。
しかし小説の登場人物の顔が見えるだろうか。
登場する景色が見えるだろうか。

それ自体ではただの記号の羅列に過ぎない活字を追って読むことで、人はその情報を再構築して仮想空間へその像を投影する。
つまり想像する。
その基準は、それこそ人それぞれであり、例えば自分の中にある、それと似た情報が基準になったり、それに相応しいと思う状況が基準になったりもする。

そこで重要になるのが『行間』と言う寸法だ。

紙媒体で活字を読む場合、頁を繰ると言う作業で否応無く眼球から活字情報を流し込むと言う作業が中断される。
活字を見ていない状態で、読み手はその小説のことを忘れるだろうか。
普通忘れない。
前頁の末文を忘れないようにしていたり、前頁までの展開を再確認しながら次頁を読むに臨むわけだ。

行間で人は想像する。
それが小説を読む、と言うことなのだろう。



また、小説に於いて、時間は読み手に拠って支配される。
行間でお茶を淹れたり、栞を挟んで床に就いたりしても、その間に小説の時間は勝手に進んだりはしない。
無論、頁を飛ばして読み始めてしまえば、知らぬ間に過ぎてしまった時間が発生するが、そんな読み方は普通しない。

映画等の場合には時間の主体がメディア側にある。
ヴィデオ等で再生する場合には、巻き戻すことによって失われた時間を取り戻す事も可能だが、映画館等ではそうも行かない。
一時たりとも目を離すことが許されない。
代わりに、と言うのも可笑しな話だが、映画等は小説の半分も観客に想像力を要求しない。
台詞、声音、表情、背景、稀に感情や意思までが確固たるものとしてそこに存在しているからだ。


映画は完成された娯楽、と言われることがある。
成る程確かに完成されている。
小説はどこまでも未完成だ。
小説に登場する景色は、十人が読めば十の景色が存在してしまう。
メディアとしての、そして読み手の想像力の優劣は関係無い。
小説の面白味はそこにこそある。






ではー。

15:47  Posted by 空白
読み物。 : comments(0) : -