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想像力。

こんにちは。姑獲鳥の夏上下二冊読むのに三日かからなかった空白です。




俺は割と活字をよく読む。
これは最近気付いたことだが、どうも活字を読む際にはそれは紙媒体で読まなければ上手くないようだ。
特に小説のような読み物は、読み手に対して多分に想像力を要求する。
ニューズを並べる新聞などとは違い、小説には場面がある。
登場人物には感情があり、思考があり、意思があり、場合によっては信仰がある。

『行間を読む』とは良く言われるが、これはそう難しいことではない。
『行間を読む』と言うと何だか、文意に秘められた、或いは秘匿された筆者の本意を読み取る、と言った様な、酷く曖昧で高尚な行為の様な気がする。
しかし、筆者の本意など筆者本人にしか解らないことであり、小説を読む際に、筆者が本心から言わんとする事を読み取る必要など何処にも無い。

人間の摂取する情報の大半は視覚に拠ると言われている。
しかし小説の登場人物の顔が見えるだろうか。
登場する景色が見えるだろうか。

それ自体ではただの記号の羅列に過ぎない活字を追って読むことで、人はその情報を再構築して仮想空間へその像を投影する。
つまり想像する。
その基準は、それこそ人それぞれであり、例えば自分の中にある、それと似た情報が基準になったり、それに相応しいと思う状況が基準になったりもする。

そこで重要になるのが『行間』と言う寸法だ。

紙媒体で活字を読む場合、頁を繰ると言う作業で否応無く眼球から活字情報を流し込むと言う作業が中断される。
活字を見ていない状態で、読み手はその小説のことを忘れるだろうか。
普通忘れない。
前頁の末文を忘れないようにしていたり、前頁までの展開を再確認しながら次頁を読むに臨むわけだ。

行間で人は想像する。
それが小説を読む、と言うことなのだろう。



また、小説に於いて、時間は読み手に拠って支配される。
行間でお茶を淹れたり、栞を挟んで床に就いたりしても、その間に小説の時間は勝手に進んだりはしない。
無論、頁を飛ばして読み始めてしまえば、知らぬ間に過ぎてしまった時間が発生するが、そんな読み方は普通しない。

映画等の場合には時間の主体がメディア側にある。
ヴィデオ等で再生する場合には、巻き戻すことによって失われた時間を取り戻す事も可能だが、映画館等ではそうも行かない。
一時たりとも目を離すことが許されない。
代わりに、と言うのも可笑しな話だが、映画等は小説の半分も観客に想像力を要求しない。
台詞、声音、表情、背景、稀に感情や意思までが確固たるものとしてそこに存在しているからだ。


映画は完成された娯楽、と言われることがある。
成る程確かに完成されている。
小説はどこまでも未完成だ。
小説に登場する景色は、十人が読めば十の景色が存在してしまう。
メディアとしての、そして読み手の想像力の優劣は関係無い。
小説の面白味はそこにこそある。






ではー。

15:47  Posted by 空白
読み物。 : comments(0) : -

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